PlayStation 4のリードアーキテクトとして、ゲームカンファレンスでも表舞台で活躍することの多いMark Cerny氏。その彼をWIREDが独占取材し、PlayStation 3の失敗とPlayStationの開発秘話と共に掲載しています。
PlayStation 3の発売
東京、吉田修平はとある電話を受けたことを今でも覚えている。Sonyは変わる必要があることを、彼は強く感じた。
2006年の春、吉田修平はまだベールに包まれたSonyの次世代機、PlayStation 3の締め切りに追われていた。すでに10年以上もPlayStationのプロジェクトに関わり、彼は次世代機のゲーム開発の責任者となっていた。吉田自身はソフトウェア畑の人間だ。しかし、その電話は社内のPlayStation 3のハードウェアチームにいる者からだった。
電話の主はゲーム機のコントローラー、DualShock 3がモーションセンサー機能を搭載していることを告げ、LAで毎年開かれるE3のステージで初披露するため同機能を使ったゲームを準備してほしい言った。
ショーまでたったの2、3週間。PlayStationのゲームが棚に並ぶ、東京にあるSony本社の一室にいた吉田は思わず声を上げた。「何だって?!」
吉田のチームはWarhawkをつくったが、デモの出来栄えは散々。それは将来を暗示しているかのようであった。PS3の発売時、ゲームの数はたったの12タイトルしかなかった。さらに、複雑なCell microprocessorはハードウェアエンジニアの助けがなければ、PS3がもつ強みを生かすこともできなかった。
数ヶ月経っても、ゲーム開発会社のPS3への移行は進まず、さらに$600という値段も重なり、新しいゲーム機のスタートは低調だった。PS3が発売した当時、Sonyのシェアは家庭用ゲーム市場の70%を有していた。それから7年を経て、現在マイクロソフトのXbox 360とは互角の状態となり、アメリカにおいては32ヶ月連続PS3の売り上げを上回るほどにまでなった。
しかし、PS4は違う。
新たなPlayStation
吉田のゴーサインを受けて、第4世代となるゲーム機のハードウェアデザインも把握できる、ソフトウェア畑の人間をSonyはこれまで探してきた。PlayStationの新たなボスとなったMark Cernyは世界でもその名がよく知られる人物である。
80年代の初め、17才にして彼はAtari Gamesで働くことになり、アーケードのクラシックMarble Madnessで最初に名前を残した。その後、 Crash Bandicootや Spyro the DragonなどPlayStationのゲームを手がけ、コンソールゲームの世界でその名が知られることとなる。
控えめに言っても、彼の採用は通常のものとはかけ離れていた。Cerny自身、”型破り””クレイジー”と呼ぶ。それは単にソフトウェアの人間がハードウェアプロジェクトを指揮するからだけではない。彼は東京から5,500 マイルも離れたLos Angelsに住むアメリカ人、東京本社や日本人エンジニア達とは距離がある。
しかし、Sonyはゲームメーカー、ゲームプレイヤー双方の世界に発信できる人物を必要としていた。求められるものは、新たなPlayStation開発チームに平等主義の精神を吹き込み、同時にPS3の間違いを正すことができる人物。Cernyはそれら全てを備えていた。
“PlayStation 3について皆で反省会のようなものを始めました。率直に言って、非常に残酷なものでしたね。”PS3はソフトウェアデザイナーにとってゲームを作るには厳しい環境だったと語る。”他に何か方法はなかったのかと思えて仕方がなかった。もっとゲームを作るのに適したハードウェアがあったはずだ。”
PS4製作にあたってCernyと彼のチームは世界中から意見を集め、Sonyが有する16のゲームデザインスタジオ、加えて社外16の開発会社の経験も生かそうとした。過去のPlayStation体制では到底あり得なかったことだ。その結果、価格が遥かに安く、ゲームメーカーにとっても開発が簡単になった。小売価格は$400とXbox Oneと比べて$100安い。そして比較的シンプルなデザインのおかげで、ゲーム機は22もの新しいゲームタイトルとともに発売されることになる。その中には、Cerny自身が手がけたKnackもある。加えて、8から10のゲームが年末までにリリースされる計画だ。
Cerny存在は新たなSonyの在り方を示している。それは開発過程をオープンにし、ゲーミングワールドが欲しいものを正しく理解しゲームギアをつくるというものだ。まさに必要に駆られての変化といえる。PS3の発売から7年前、ゲームの世界はすっかり様変わりした。PC、スマートフォン、タブレット、そしてインターネット。今やあらゆる機種との競争の時代だ。確かにSonyはハードウェアにおけるその歩みを止めてはいけない。しかし一方で、肝心のゲームがなければ話にならない。
“今後はハードウェアの特徴と同じくらい、ゲームパートナーの重要性が大きくなるだろう。”ゲームコンサルタントのScott Steinbergは言う。”Cernyは30、40年の経験があり、今の状況を理解している。単に技術的なことだけではないんだ。”
東京で過ごした日々
Mark Cernyが東京にあるSony本社を最初に訪れたのは1993年のことだ。シリコンバレーからさほど遠くないカリフォルニア、バークリーで育った彼は、80年代の終わり頃Atari社を離れ、その後3年半を日本で過ごした。セガで仕事をし、Missile Defense 3-D、 Shooting Galleryなどに携わった。
その間、彼は日本語を学び、友人の結婚式で後に妻となる日本人女性と出会う。1993年まで北カルフォルニアに戻りCrystal Dynamics に在籍していたが、日本人とのコネクションが幸いしたのか、PlayStation 1の流れをつかんだ。そして開発のため、Sonyとの会議に出席することになる。
当時SonyはPlayStation用のゲーム開発キットを、日本だけのごく限られたデザイナーに提供していた。しかし日本語で書かれた契約書を読み、サインすることが出来たCernyは、Crystal Dynamicsへの開発キット提供に成功した。そのとき彼に契約書を渡したSony役員こそ、吉田修平である。
”Crystal DynamicsはPlayStationに参加した最初の外国人開発グループです。” 吉田はそう語る。
Cernyと日本の巨大エレクトロニクス企業との長きに渡る関係が始まった。そしてその後も、初代PlayStationだけでなく、後継機PlayStation 2にも渡ってゲーム開発を続けることになる。PlayStation 3ではついに、ゲーム機をつくる際ハードウェアチームに呼ばれ、新ハードウェアの感触を確かめることになるが…。そのときの彼には、ハードデザインにとやかく言う権限などなかった。
PlayStation 4 Exclusive: Mark Cerny Breaks Down the Hardware-Gadget Lab-WIRED
Source:WIRED
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